坂東好太郎の三男として東京に生まれる。千代田区立麹町小学校を卒業後、暁星中学校に入学。幼少の頃より背が高くサンマというニックネームもあった。また学芸会など演劇に熱心であった。映画俳優に転じたあと昭和37年(1962年)に歌舞伎俳優に戻った父は伯父の八世坂東三津五郎・十四世守田勘彌に稽古をつけてもらっており、テープ係として同行していたという[3]。「どうしても歌舞伎役者になりたい」と望み[4]、八世三津五郎一門に入門。昭和48年(1973年)5月、歌舞伎座『奴道成寺』の所化観念坊で坂東弥十郎[注 1]を名乗って初舞台を踏んだ。しかし昭和50年(1975年)1月に八世三津五郎がフグにあたって不慮の死を遂げ(詳細はこちらを参照)、十四世守田勘彌の門に移るが、2か月後にはその十四世勘彌も急死してしまう。後ろ盾を失くすかたちとなり、役がつかなくなったため、実家に戻って父のもとで一般演劇にも出演していた。父は亡くなる前に三代目市川猿之助に彌十郎を託し、門下に移ったという[4]。昭和53年(1978年)『五大力恋緘』(五大力)の男芸者、『人情噺文七元結』(文七元結)の鳶の頭で名題昇進。以降は猿之助一座で立役、敵役、老役と幅広い役柄をこなし、平成10年(1998年)に真山青果賞奨励賞を受賞する。三代目猿之助演出のオペラ「コックドール」(1984年)等で演出助手を務め、坂東玉三郎の「夕鶴」(1997年)の演出も手がけた[5]。しかし澤瀉屋の助手としてではなく、自らもっと海外でやってみたいとの思いが芽生えたことから一門を離れた。その後、同世代の**世中村勘三郎による「平成中村座」に参加。平成15年(2003年)には中村座ニューヨーク公演『夏祭浪花鑑』「鳥居前」「三婦内」の三婦が好評を得ている。平成26年(2014年)には長男と自主公演「やごの会」を立ち上げ、平成28年(2016年)にはフランス、スイス、スペインの3ヵ国をめぐるヨーロッパ公演も行っている。